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2019年秋号
追忆の京大逍遥
川下大洋さん
(俳优?演出家)
私の中身は今でも男子高2年の文化祭のままだ。女子にもてるための出し物は何かを考え、それを実行する。同じ事を繰り返していてはダメなので常に新しいことを模索する。
1978年、京大理学部に入学した。动物行动学を専攻するつもりだったし軽音サークルにも所属するつもりだった。そのまま行けば今とは违う人生だっただろう。だが4月に剧団に入ったことで私の人生は别の枝に分かれた。
〈そとばこまち〉は当时学内にできたばかりの剧団で现在でも続いているのだが、私のいた10年は今思えば先鋭の头脳集団だった。演剧としての芸术性も追求するが、それをエンタテインメントに昇华する手段を考えることに时间とエネルギーと才能を费やした。実际その后大活跃するクリエイターを多く辈出した。
ポップであろうとする姿势は演剧を思想に结びつける人からは攻撃され、当时主流だったアングラ演剧からは「においがないキムコのような剧団」と揶揄された。我々は面白がって「キムコクラブ」というファンクラブを発足させた。においなど要らない。必要なのはファッション性だ。どうすればコアな演剧ファンではない一般の若い普通の女子を剧场に来させるかに腐心した。それが成功したからか、当时の関西演剧ブームを牵引する存在にもなれた。
そんなそとばこまちは京大の気风が育んだ剧団だ。私が入った当时、剧団は教养部のキャンパス、础号馆の中庭の老朽化のため使われていない校舎〈中央馆〉で稽古していた。24时间、いつでも早い者胜ちで使えた。いま吉田生协があるところにサークル叠翱齿を得てからは、剧団员は朝(または昼または夜)叠翱齿に集まり、叠翱齿から授业に行ったり行かなかったりした。11月祭には毎年参加して、贰号馆の大教室を剧场にした。
3回生の时に剧団は学外に出ることを决断、乌丸御池のビルのワンフロアを借り、芝居の公演も打てるアトリエとした。50人の大所帯。男子は京大生、女子は京大や同志社、そして京女などの女子大から来ていた。
アトリエが出来てから剧団员は大学へ行くかアトリエへ行くかの2択を毎日迫られた。私はもちろん大学には立ち寄りもせずアトリエへ直行した。当时の理学部にあって、単位は空から降ってくるどころかそこらへんにザクザク落ちていて、私のような者でも卒业はできた。だが他の学部の者たち、特にちゃんと勉强?卒业して就职しようという者たちはジレンマに苦しんだようだ(その甲斐あって彼らはいま各业界のトップで活跃している)。
さて学外に出たとはいえ学生剧団。その后プロになった者も多いが当时は素人どころか全员初心者。それでも、技术もアイデアもゼロから考えた。自分たちで考えることを优先し、他の剧団や演剧人からノウハウを学ぶことはしなかった。リーダーが决定すれば早いが全员で何时间もミーティングした。だからこそ、当时のブームを巻き起こす存在にもなれたと思う。
トップダウンを嫌い、皆がクリエイターとして切磋琢磨する。その姿势をお互いが尊重する。効率のいい管理システムを作る方が楽だろうが、手间がかかっても个人の自由を守る环境を维持する。そんな场所にいられたことが今の私を作っているし、私の夸りだ。
ウディ?アレン原作「ボギー! 俺も男だ」を上演したときのワンシーン。市販の戯曲の翻訳に納得いかず、文学部の後輩と苦労して手直しした。中央が私
かわした?たいよう
1958年、长崎市に生まれる。1978年に京都大学理学部に入学。1983年に卒业。1988年まで剧団そとばこまちに在籍。その后、フリーの役者として多くの剧団にゲスト出演するかたわら、「ドナインシタイン博士」を名乗りバラエティ活动を开始。1998年に剧作家?后藤ひろひとと演剧集団笔颈辫别谤を结成。コント集団「大田王」やインプロ集団「インプロビアス?バスターズ」にも参加。読売テレビ「ウェークアップ!ぷらす」をはじめ、ナレーション业も务める。吉本兴业所属。